1933年に生まれた日産自動車。神奈川の新子安にある日産の横浜工場は、その始まりの場所です。時代が移り変わり、電動化・知能化に対応するため、現在の工場は最先端の設備を備えています。しかし今回は、今年日産が創業90周年を迎えるにあたり、あえて横浜工場の変わっていないもの、古き良き姿をご紹介します。普段なかなか見ることができない工場内部の様子は、新鮮でかっこよく見えるかもしれません。そしてそこには日産の創業から変わらないモノづくりへの情熱が見えるはず。
いざ、工場の中へ
まずご紹介するのは、エンジンを組み立てているライン。ここで作られているのはe-POWER用のKR型エンジンです。新型車にあわせて作られるものは変わっても、一つひとつ、機械の力も借りながら手作業で仕上げていく姿は昔から変わっていません。
情熱が受け継がれる鍛造
こちらは「鍛造」のエリア。鍛造とは、金属を叩いて圧力を加えることで強度を高め、目的の形状に成形することで、クルマの一部の部品はこのようにして日産の工場のなかで作られます。こちらの機械はなんと、約50年前のもの。足回りの部品を手作業も加えながら、製造しています。鍛造では、多くの工程はすでに完全自動化されています。しかし、手作業で機械を動かすことも、生産技術の基礎を覚えるために次世代に残しておく必要があります。新しい部品が開発されたら、まずはここで試作してみたりも。
次々と流れる加熱した鉄をひっくり返す手さばきは見事です。
鍛造一筋45年の田鎖 吉行は、現在の横浜F・マリノスの前身である日産サッカー部の選手として入社し、サッカー部の解散後、鍛造課に配属になりました。当時をこう振り返ります。 「当時は直列6気筒エンジンのクランクシャフトを1日1,600本ほど、3人で交代で回して作っていました。すべて手作業でしたね。今は自動化していて、作れる数も倍以上になりました。当時は熱いし汚れるし、体力的には大変でしたが、『誰かが打たなきゃエンジンは作れない』そんな根性で取り組んでいました。」
田鎖さんと並ぶのは、荒谷 亮太さん。2009年入社以来、クランクシャフト一筋の製造技術員です。
田鎖さんとは師弟のような関係で、昔の話などもよく聞いているそう。モノづくりの系譜は人から人へ、受け継がれていきます。
番外編~ふと空を見上げると、なんだこれ?
二つの建物を繋いでいるのは橋ではなく、実はクレーンを吊り動かすためのレーン。当時はここに建物があり、その名残だという。ふと見上げると、思わぬ歴史に触れることもあるのが面白い。
プレス工程で見つけた、操業当時の趣
横浜工場の中でも、創業とともにできた最も古い建物の中をご案内します。ここは、サスペンション部品をプレス加工して製造するエリアです。当時の支柱や設備が今も残っています。
1991年入社の渡辺 淳さんは、専門工長としてサスペンションやモーター部品のプレスを担当しています。
「プレス工程は、実は配属当時の第1志望では必ずしもなかったんですが、取り組んでみると意外に面白く、天職だとさえ思いました。自分の作った部品が車になって走っていることに、昔も今も喜びを感じますね。」
「機械やオペレーションは日々アップデートしないといけないですが、作業ロボットに教え込むという基本的な仕事のやり方自体は、昔も今も、変わっていないと思います。そこに懸ける想いも変わらないです。」
変わるものと変わらないもの
時代は変わります。日産は、カーボンニュートラルを実現することを目指しており、工場も日々、進化し続けています。それでも90年経とうとする中、変わらないものとは?
横浜工場で長く働く従業員たちが皆口にしたのは、日産のものづくりに懸ける想いや情熱でした。これからも、人々の生活を豊かにすべく、日産の挑戦は続いていきます。
番外編:「横浜工場ゲストホール・エンジン博物館」は一般公開されています
工場に来たら、まずお目見えするのがゲストホール。この建物は1933年に工場が操業したのち、1935年に本社兼工場事務所ビルとして建設された。
2階には、歴代のエンジンがずらり。ゲストホールは入場無料、予約も不要。いつでもみなさまをお待ちしています。
横浜工場の見学・ゲストホールの詳細はこちらから:
https://www.nissan-global.com/JP/PLANT/YOKOHAMA/