レジェンド 01:先見の明を宿した近代人、鮎川 義介。

鮎川 義介
鮎川 義介

1880年11月6日、山口県に生まれる。東京帝国大学工科大学機械科を卒業。1928年、「日産」の名称の発端となる「日本産業」の社長に就任。1933年12月26日に「自動車製造株式会社(日産自動車株式会社の旧社名)」を設立する。1939年に会長に退いた後、1943年に貴族院議員に選ばれ政界へ進出。1967年に永眠。

日産の歴史のスタート

1930年代の日本の道路事情といえば、市街地の一部は舗装化されていたものの、ほとんどの路面は、江戸時代の頃と大きく変わらない砂利のままであった。一方で、鉄道網は日本人の長距離移動の手段として重宝されていた。そんな当時、大阪-東京間をノートラブルで走りきった車がある。そもそも、そんな長距離を車で移動するという発想自体が突飛なことであり、ましてやそれがゼネラルモーターズでもフォードでもなく純粋な国産車であったのだから、まさに偉業と呼ぶべき快挙であった。車の名前は“ダットサン”の原型とも言える“ダットソン”。それをさらに育て上げ、日産自動車を一大自動車メーカーにまで築き上げた男こそ、鮎川義介なる人物だったのである。

日産自動車が今年創立80周年を祝うのは、1933(昭和8)年12月26日に、「自動車製造株式会社」が設立されたことを起源とする。しかしそのルーツを辿ると、今日の日産車の萌芽は1914(大正3)年まで遡る。1914年3月。橋本増治郎が主宰する東京・麻布広尾の「快進社自働車工場」は1台のオープンの四輪乗用車を完成。これにダット(脱兎号)と名付ける。「快進社」の出資者である田健治郎、青山禄郎、竹内明太郎のイニシャルを綴ると「DAT」になり、速いことの比喩「脱兎の如く」に通じるところから採用された。

1914年に完成したDAT号を囲む快進社の従業員たち

一方、大阪には1919(大正8)年に「実用自動車製造」が設立され、後に日産自動車の専務取締役技師長などを歴任したウィリアム・R・ゴーハム設計のゴーハム式三輪乗用車を製造した。「実用自動車製造」と、「快進社」が改称した「ダット自動車商会」は1926(大正15)年に合併、大阪に「ダット自動車製造株式会社」が誕生し、1930(昭和5)年に小型車を開発する。一部にダットのパーツを流用するこの車は、“son of DAT” という意味で「ダットソン」と名付けられ、冒頭に記した大阪-東京を故障することなく往復する過酷なテストランに成功した。この「ダット自動車製造」を1931(昭和6)年に買収したのが、鮎川義介の「戸畑鋳物」であった。

アメリカに学ぶ

父は旧長州藩士鮎川家の第10代当主、母は幕末期の長州藩倒幕派の中心人物で維新後は明治政府の財政・外交の要職を歴任した井上馨の姪という、いわば名門の出身である。しかしながら鮎川は初めから政治家や実業家を志すことはなかった。鮎川の素性を姉(鮎川の祖母)から聞いていた井上馨は、ある日鮎川を呼び出し「貴様はエンジニアになれ」と申し渡す。それを無条件に受け入れた鮎川は旧制山口高校を経て1903(明治36)年に東京帝国大学工科大学機械科を卒業する。

産業界に絶大なる影響力を持つ井上馨の同族であった彼は、望めばその進路はいかようにもなる立場にあったのだが、大学院在籍中に身分や学歴を隠して芝浦製作所(現・東芝)に日給45銭の職工として働くこと選んだ。井上馨の元を訪れ、媚びを売る実業家たちを目の当たりにし、そこに仕える気には到底なれなかったこと、大学在籍中に死を意識する病に倒れ、生きることが実感できる職に就きたいと思い悩んだことなどが、鮎川をモノづくりの現場に入るという決断へと導いたのである。この生産現場を熟知した経験が、後に自らが製造業を営み、それを成功に結びつけた要因のひとつになったことに疑う余地はない。いわゆる「現場第一主義」の先駆けである。残されたポートレートには長髪のものはなく、彼は終生五分刈りで通したようで、この1点を見ても、鮎川義介が質実剛健を旨とする、武士の魂を持つ人物でもあったことが容易に想像される。

グールド・カプラー社

鮎川はその後アメリカに渡り、グールド・カプラー社の可鍛鋳鉄工場で1年余り労働者として働き、技術の習得に努めた。奈良の大仏に始まる日本の鋳物は、堅いがもろい旧来の性質のままであり、安価で複雑な形状にも対応可能で壊れにくい可鍛鋳鉄こそ、日本の工業に不可欠な技術であると悟った末での英断であった。1906(明治39)年に帰国するものの、2年後に再び渡米。奇しくもそれは、米国でゼネラルモーターズが設立された年だった。

自動車産業という彼にとっては未知の怪物に直面し、そこはかとない可能性を感じたが、1910(明治43)年に鮎川は井上馨のバックアップを得て、福岡県遠賀郡戸畑町(現北九州市戸畑区)に「戸畑鋳物株式会社」を設立。アメリカで学んだマレブル(黒芯可鍛鋳鉄)の接手*つぎて*の製造の道を選ぶ。表面が瓢箪*ひょうたん*のように滑らかであれという願いから作られた「瓢箪印」の接手は、市場に受け入れられ成功を収めた。この「戸畑鋳物」が現在の「日立金属」の祖で、1921(大正10)年には初めて電気炉による可鍛鋳鉄の製造に着手する。その後も複数の企業を設立・吸収するなどして、鮎川は少壮の実業家として、次第に社会に求められ、産業界に頭角を現わしていった。

アメリカ留学の様子

ゆかりの地、横浜

1928(昭和3)年、鮎川義介に思いもかけぬ大きな仕事が課せられることになる。義弟・久原房之介の「久原鉱業」の再建を委ねられたのだ。当初は断り続けた鮎川だったが、最終的に引き受けたからには鮎川はその再興に全力を投じ、「久原鉱業」の社長に就任すると同社を「日本産業」と改名。当時の類例からすれば、私人名を付けることが一般的であったが、彼はあえて「鮎川」を名乗ることを避けた。会社は日本全国の株主のものであり、日本の社会や公益の一助となるべきとの思いからの命名だった。「ニッサン」の呼称が誕生した瞬間である。
さらに「日本産業」を公開の持株会社に改組。日本鉱業、日立製作所、日産化学、日産生命などの企業を次々と「日産」の翼下に収め、コングロマリットの「日産コンツェルン」を築いていった。

「日本産業」は三井、三菱、住友などと肩を並べる巨大企業グループに成長するが、その体質は他の財閥企業とは根本的に異なる。すなわち当時の財閥は同族が所有・支配する封建的かつ保守的な体質であったのに対し、「日本産業」は株式を公開して民間から資金を集め、利益を民間へ還元するという近代的な体質をもっていた。これこそが鮎川義介の真骨頂であり、その後の日本の企業経営に革命的な変化をもたらしたと言ってよい。また鮎川は企業のトップに技術系の出身者を据え、陣頭指揮に当たらせたという点でも先進的であったのである。

日産自動車は2009年8月に、本社を東京・銀座から横浜・みなとみらい地区に移転した。主たる大企業が東京に本社を置く中で、あえて横浜という土地を選んだことには理由がある。神奈川県横浜市神奈川区宝町に現存する「横浜工場ゲストホール・日産エンジンミュージアム」は、1934(昭和9)年に本社1号館として誕生。1968(昭和43)年まで本社として利用されていた建物で、現在でも日産自動車の登記簿上の本店所在地はここが記されている。

1934年竣工の本社工場。現在の横浜工場

現在のゲストホール/日産エンジンミュージアム

「横浜」という土地は日産のルーツであり、2009年の本社移転はいわば「里帰り」だったのである。日産自動車の主力エンジン工場である横浜工場はこのすぐそばにあり、2007年からNISSAN GT-R用VR38型エンジンの生産も開始されている。この地を選んだのも鮎川義介だった。 鮎川は早くから自動車と自動車産業の将来性を確信するとともに、日本の自動車市場が欧米からの輸入車に牛耳られている状況を憂慮し、優れた国産車の必要性を主張していた。

「ダット自動車製造」はダットソンの開発には成功したものの、その生産/販売には多大な資金が必要なため、親会社は手放すことを決意。1931年8月に鮎川義介の「戸畑鋳物」が買収したのである。「戸畑鋳物」は東京での販売拠点として1932年4月、銀座に「ダット自動車商会」を開く。ところがその前月の開店準備中に同商会は時ならぬ洪水に見舞われる。その際、誰言うともなく「ダット“ソン”は“損”に通じる」ということになり、「日の出の勢い」を期して太陽の “サン”に変え、ここに初めて“ダットサン”の名前が生まれたのである。

ダットサン10型(フェートン)

日産創設者だけにあらず

1930年代初頭、商工省が国産車の増強を図っていた気運の中で、ついに機が熟したと感じた鮎川義介は1933年12月26日、「日本産業」600万円、「戸畑鋳物」400万円、計1000万円の共同出資で横浜に「自動車製造株式会社」を設立する。当然のこととして両親会社の社長である鮎川義介が社長に就任した。翌1934年5月30日の第1回定例株主総会で全額「日本産業」出資に切り替わり、ここに名実ともに「日産自動車株式会社」が誕生したのである。

当時のコンベアラインの様子

同時に横浜市神奈川区の宝町/守屋町地区に新開発の埋立地20万坪を取得し近代的な大工場を建設、大阪の「戸畑鋳物自動車部」をここに移し、1934年4月横浜製ダットサン・セダンの第1号車がラインオフした。大阪時代の1933年の年産202台は、横浜に移った1934年には940台と飛躍的に増加した。翌1935年には全長70mのコンベアラインも完成して、シャシー/ボディの一貫生産が始まり、年産3800台に達する。さらに1936年には6163台、1937年には10227台を生産、民族資本の自動車工場としては東洋一の生産規模に達し、少数ながら輸出も開始した。

こうして、鮎川義介の壮大な夢が実現され、今日の世界に飛躍する日産自動車の基礎が築かれたのである。一応の目標を達成した鮎川は1939(昭和14)年5月、会長に退いた。

鮎川義介は1943(昭和18)年、貴族院議員に選ばれ、政界にも進出する。貴族院は現在の参議院の前身だが、議員は選挙ではなく天皇の勅選であった。同年、日産グループ各社の出資を受けて中小企業助成会を設立し会長に就任。以後、中小企業の振興に尽くす。戦後、大企業と農民はさまざまな形で国政の恩恵を受けていたが、中小企業のみが旧態依然とした悪条件下での経営を余儀なくされていた。しかし、日本の産業基盤を支えるのは中小企業であると、鮎川は考えていたのである。1953(昭和28)年に公選の参議院議員に当選、道路計画調査会を発足し会長になったのも、自身が自動車産業に携わってきたことと決して無関係ではなかった。その後も全国中小企業団体中央会会長、岸内閣経済最高顧問、産業計画会議委員、東洋大学名誉総裁などを務め、瑞宝章を授与された。1967(昭和42)年、病に臥し波乱と栄光に満ちた86年の生涯に幕を閉じた。

横浜工場でのダットサンオフライン式の様子

名門の出身であることや己の地位に安住することなく、一介の工員としてモノづくりの現場に進んで入り込み、技術の習得に精を出す一方で、日本の自動車産業界の行く末を鑑み尽力した鮎川義介。日産自動車の創設者としてだけでなく、日本の自動車の発展に偉大なる足跡を残した人物として、後世に語り継がれるべき日本人のひとりである。

ライタープロフィール

高島 鎮雄 / Shizuo Takashima
1938年生まれ。「Motor Magazine」誌編集部を経て、「Car Graphic」の創刊に参画。Car Graphic副編集長を務めた後、89年4月には、ハードウェアを厳正中立に論評するCar Graphicに対して、自動車に美とロマンと夢を求める「SUPER CG」を創刊した。全日本クラシックカメラクラブ(AJCC)会長も務める。