レジェンド 08:EVがエネルギーのネットワーク化を加速する、堀江 英明。

堀江 英明
堀江 英明

1957年広島県広島市に生まれる。1976年に広島大学教育学部付属高等学校を卒業後、東京大学教養学部理科Ⅰ類へ入学。1980年に東京大学工学部船舶工業科へ進学し1983年に卒業。同年東京大学大学院理学系研究科物理学専攻理学修士課程に入学し1985年に修了。日産自動車へ入社する。

中央研究所の材料研究所へ配属後、1990年に車両研究所へ異動し、高性能電源システムの研究開発に携わる。1999年に総合研究所の主任研究員、2005年に総合研究所第一技術研究所の主管研究員、2006年には電動駆動研究所の主管研究員、以後、2007年から2010年まで東京大学人工物工学研究センター准教授、2011年に東京大学生産技術研究所特任教授、2012年にシニア・イノベーション・リサーチャー(SIR)に就任し現在に至る。
「自動車の免許は入社してから取りました。自動車メーカーに入ったし免許くらいは持ってないとまずいかなと(笑)。でも、クルマ自体には興味があって、小さいころはクルマの絵ばかり描いていました。初めて買ったクルマはブルーバード。結婚して子供ができたので。必要に迫られたというよりは、ロジスティック上迫られたという感じです(笑)」

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サラリーマン博士の誕生

日産自動車には、東京大学の特任教授も勤める社員がいるという。教員が社員になったのか、あるいは社員が教員になったのか。そもそも、そんな社員は本当に存在するのだろうか。もちろん、それは単なる噂でも都市伝説でもなく本当の話。日産自動車のシニア・イノベーション・リサーチャーにして東京大学生産技術研究所特任教授という異色の職歴を持つのが堀江英明である。リーフのリチウムイオン電池の研究開発で、主導的立場を担ってきた人物だ。
東大研究室で、取材に応じる堀江氏。

「会社では自動車用バッテリー、大学では定置用の研究と、コンプライアンスをちゃんと守っています」 インタビューの冒頭、堀江からそう説明を受け、彼が先進技術の研究開発というデリケートな立場にあることを認識した。

1957年4月に広島県広島市生まれた堀江は高校までを広島で過ごし、東京大学教養学部理科Ⅰ類に入学する。東大に入学し東大の特任教授になるような人物は、図抜けた才覚のある子供だったに違いない。例えば夏休みの自由研究で、先生ですら理解するのが容易ではない実験をしてしまったとか。

「残念ながらごく普通の子供でした。基本的に科学は好きでしたが、中学・高校生くらいからは文学や哲学に興味を持つようになりました。本もずいぶんたくさん読みました。いまで言うところのリベラルアーツですね。リベラルアーツは物事の基本を探る学問で、これは理化学系とあまり変わりません。突き詰めていくと結局は人間力が重要であり、これは理系も文系も同じようなもの。だから理系/文系で人を分けるなんてあまり意味がないと、高校時代には思っていました。大人になってからもその考えには変わりなく、実は1980年代半ばからスティーブ・ジョブスの精神的おっかけだったんです(笑)。彼はテクノロジーとリベラルアーツが交差することを追究し続け、それが新しい価値を生み人々を幸せにすると信じていたし、それを商品に落とし込んでいた。そこに惹かれました」
リチウムイオン電池(左:筒型、右:ラミネート型)。
リチウムイオン電池を搭載したティーノHEV。(1998年)

大学時代、文系の人よりもたくさんそれ系の本を読んだんじゃないかと自負する堀江は、大学時代の後半では物理をやっていこうと考える。それにはもちろん、彼なりの理路整然とした理由があった。 「物理が、世の中の基本だと思いました。昔ならそれは宗教だったのかもしれませんね」

結局大学院まで進み、1985年に東京大学大学院理学系研究科物理学専攻理学修士課程を修了する。そのまま、研究者としての道を選ぶこともできたが、社会に出ることに。

「大学もそれはそれで大変立派な社会なのですが、日本ではしばしばそう見られない部分があるかもしれませんね。企業に勤め収入を得て生活する場が社会。日産自動車を選んだ理由ですか? 日産は自動車だけでなく宇宙航空や海洋もやっていたし、交通システムにも興味がありました。社会貢献の一役を担えるかと思ったのです。それと、これは個人的にとても重要なのですが、追浜が海のすぐ近くにあったので(笑)。海が大好きなのです。学生時代に海と入道雲を一週間、見続けたこともありました(笑)。そこに理由は特になく、ただ、海が好きだったのです」

2003年東京モーターショーで発表されたコンパクトリチウムイオン電池。

6年かけてドクター論文を書き上げる

コンパクトリチウムイオン電池を搭載したエフィス。

入社後は材料研究所に所属、触媒開発に携わった。1985年と言えば、触媒の研究開発は頂点の時期。ポルシェやBMWが採用を狙い研究開発をしていたメタル単体触媒を、日産は世界に先駆け、しかも量産車のスカイラインやローレルなどに投入した。その研究開発にも堀江は関与することができた。

「実は化学があまり好きではなかったので、当初はちょっと困りました。でも大変に勉強になりました。化学工学について徹底的に学ばせていただいて、それが後の電池開発に大変役に立ちました」

材料研究所で数年が経ち、このまま触媒を極めるのか、あるいは新たなものを追い求めるのか、そんなことを考えていた頃、堀江は聞き慣れない言葉を耳にする。それが「ZEV」、ゼロエミッションビークルだった。「ゼロエミッションって電気自動車?」くらいの知識しかなかったものの、なんとなく興味を持ったという。同じ頃、日産は車両研究所で電気自動車のチームを立ち上げる。堀江はそこへ誘われた。

「1990年2月1日に配属されました。当時、電気自動車用電池の担当は自分ひとりでした。上司からは、あらゆる電池の可能性を探って欲しい、10年やって欲しいと。10年は長いなと思っていましたが(笑)、いつの間にか20年以上経ってしまいました。物理専攻ならインバータかモーターを担当するのが普通ですね。でも、電気自動車を司るのは電池に違いないし、電池はまだ開発途上だったので、最初に土俵を作ることができれば、後発組はその土俵で戦わざるを得ない。先行する意味があると考えました。こんな偉そうなことを言っていますが、電池のことはほとんど何も知らなかったので、いちから勉強を始めました」

座間事業所でのバッテリー生産ライン。

車両研究所で「高性能電源システムの研究開発」に取り組む一方で、たまに大学の恩師のところへ顔を出していたところ、「ムダにはならないのだから、ドクターを取ってみたらどうか」と打診を受ける。
「それがきっかけで、週末はほぼ徹夜。6年かけて論文を書き上げました。審査の先生の一人からは冗談で、内容は博士論文3本分ありますねと言われました。もちろん、会社のリソースはまったく使わず、会社にも報告していませんでした。会社に言ったのは、1999年に博士号を取ってからです(笑)」

こうして、自動車会社では稀な“サラリーマン博士”が誕生したのだった。

メタル単体触媒を搭載した7代目スカイライン。(写真は1987年モデル)
ローレル(1984年)

EVだからできること

リーフを日産自動車初の電気自動車(EV)と思っている方も少なくないようだが、記念すべき最初のEVは1947年の「たま電気自動車(鉛電池)」だった。以後もコンセプトモデルや実験車としてEVを開発、1996年には「プレーリージョイEV」をリチウムイオン電池を搭載したEVとしては世界で初めて、フリートという形式で販売に漕ぎ着けた。堀江英明は、一貫してリチウムイオン電池にこだわって開発を続けてきたという。現在、ハイブリッドやPHVには主にニッケル水素とリチウムイオン電池のいずれかが使用されている。そもそも、ニッケル水素とリチウムイオンの違いはどこにあるのだろうか。
最初のEVは、たま電気自動車。(1947年)
たま電気自動車の取替え式電池。
「鉛酸電池(鉛蓄電池)やニッケル水素の電解液は水ですが、リチウムイオンは水を使いません。ご存じのように、水は電気分解を起こすし沸騰もします。例えば電池を貯金箱に例えてみましょう。ニッケル水素の貯金箱に1000円入れてそれを取り出そうとすると、普通の温度では980円かや970円くらい。しかし45℃くらいになると800円しか戻らない。それが50℃になると約半分まで減ってしまう。せっかく100%貯めていても、水の電気分解に使われてしまうのです。その上、消費するほど発熱するから、さらに状況は進行し悪化してしまう。温度に対してとても敏感なのです。しかしリチウムイオンは水を使いません。1000円入れればいつでも1000円取り出せます」
さらに、リチウムイオンは1個で4Vだがニッケル水素は1.2Vなので、同じ電圧を得ようとすればリチウムイオンのほうが軽量コンパクトなパッケージで済む。また、ニッケル水素の中身の7割は金属で、液体中で不純物が悪さをするため精錬された金属でなければならない。リチウムイオン電池の場合、リチウムの含有量は全体の約2%ほど。負極はカーボンで正極は酸化物、電解液は有機物。つまり品質の安定がニッケル水素よりも図りやすいというわけである。
「私がEVの開発チームに配属された2週間後に、ソニーがリチウムイオン電池を発表しました。ZEVプロジェクトの時も、日産自動車だけがリチウムイオン電池を採用しました。当時はリチウムイオン電池で高出力を出すのは不可能とされていたのです。それが、他のメーカーがリチウムイオン電池を採用しなかった主な理由でしょう。でも我々は、リチウムイオン電池でもそれが可能だと確信していましたから、それ以外は考えませんでした。そして世界で最初に我々が高出力可能であることを理論・実験ともに証明をしました。これらを経て、いま、ようやくリチウムイオン電池が主流となったのです」
リチウムイオン電池を搭載したプレーリージョイ。(1996年)

内燃機とEVの決定的な違い

私たちにとっての“電池”とは、電気を溜める“箱”くらいの認識しかない。しかし、堀江の話を聞いていると、彼は電池をまったく別の何かとして捉えているように思えた。堀江にとって電池とは、どういう存在なのだろう。

「そうですね、リチウムイオン電池を他の電池と同じようにくくられてしまうことには若干抵抗があります(笑)。いま、世界はネットワークの時代です。情報革命に続いて、電気エネルギーも、このネットワークで使う時代が来るのではないでしょうか。

アルトラEV(1997年)
内燃機はエネルギー効率が低く発熱が大きく、排ガスも出すため、人間のごく身近には置きにくい。このため、家の中でも使えないし、未来のロボットも内燃機を動力にはしないでしょう。しかし、電池はそれが可能です。そうはいっても、家庭の電化製品をすべて電池で動かすのは不可能ですから、電力は発電所で作ってそれを持ってくるしかありません。もし、100の電力が必要なら100を作り、150の電力が必要だと思って作っても100しか使わなかったら50は捨てるしかない。サプライとデマンドがつねに均一である必要があるのです。そこに電池が入ると、電気を溜めておけるようになる。余ったらためて、想定以上に必要となればそこから引き出せばいい。電池はエネルギーのネットワークの中で銀行のような存在となり得るのです」
ネットワーク化できるかどうかが、内燃機を積んだクルマとEVとの、決定的な違いだと堀江は語る。内燃機のクルマはエネルギーを“個”で使い、他との共有はできない。ガソリンや軽油がなくなれば、自らガソリンスタンドに赴いて給油して、自分のためだけに燃料を消費する。しかしEVなら、充電だけでなく給電もできるから、ネットワークで繋がった他の場所とエネルギーを共有することが可能だ。街の至るところに電池を置き、置いておくだけではもったいないから、モーターとタイヤを付けて動くようにしてトランスポーターとして使う、これがEVである。あるいは電力ケーブルで双方向に繋ぐ。そう考えれば、彼の言う「エネルギーのネットワーク化」が理解できる。
ハイパーミニ(1999年)
取材に応じる堀江氏

「自動車は年間で7000万台くらい生産され更に今後も増えてゆきます。これを最大出力で考えてみると、1台当たり100kWを発生するとして7000万台がすべてEVだと仮定すれば、その出力は原発7000基分にも相当します。自動車産業とはこのようにとてつもないポテンシャルを秘めた産業なのですが、それが個々に走り回っていると実感も湧かないでしょうし、EVの有効な使い方とは言えません。ネットワークで繋げて共有して初めて、EVというクルマの真価が発揮されるのです」

そう語る堀江の目には、そんな未来のネットワーク社会がすでに具体的に映っているように見えた。

ライタープロフィール

渡辺 慎太郎 / Shintaro Watanabe
1966年東京生まれ。アメリカの大学を卒業後、自動車専門誌「ル・ボラン」の編集者を経て1998年にカーグラフィック編集部へ。2003年に退職し、編集プロダクション「(有)MPI」の代表を務めるとともに、自動車ジャーナリストとしても活動を始める。現在はカーグラフィックの編集長も務める。