超人的な耳を持つ男

巨大な扇風機が最大風速270km/hの風を作り出す大型実車風洞。ハリケーンの真っ只中のような環境に置かれたマーチの車内で、その男は耳を傾けていた。

日産のクルマは、揺るぎない信念を持った開発者によって作られている。実験技術開発本部に所属する作元隆伸も、そのひとり。彼は「風音」官能評価のスペシャリストだ。風音とは日産独自の技術用語で、主に80km/h以上の高速走行時に車体に当たる風や自然風の強弱によって発生する風切り音のことを指す。作元は基本的に大型実車風洞と呼ばれる最大風速270km/hの風を作り出す実験施設内で、またある時はフィールドの高速道路に飛び出し、自らステアリングを握って風音の評価に全神経を集中させている。

そもそもクルマが走行中に発する音は、風音だけではない。エンジン音、排気音、ロードノイズなど、さまざまな音が交じり合ってドライバーの耳に届く。作元は絡まった糸を解きほぐすかのように、それらの音を正確に聞き分ける耳を持つ。音の聞き分けは、風音を評価する上で重要な技だ。その技の先にあるトラブルシューティング、ひいては風音の低減化を着実に、かつ短時間で実行するために、必要不可欠な行為なのである。

人間の聴覚は加齢と共に衰え、特に高周波の音が聞き取りにくくなるという。しかし、作元の聴覚は衰えるどころか、ますます研ぎ澄まされていく。作元には外装パーツに空いた僅か数ミリの穴が発する高周波の異音を聞き分け、さらに短時間でその異音発生部位を見つけ出す能力があるというから驚きだ。そして作元の本領は、その対応策の分野でも発揮される。まさにひとり三役の活躍だ。

風音の評価は、大型実車風洞で行われることが多い。1985年に建設されたこの風洞は、世界初の低騒音風洞だ。

彼は絡まった糸を解きほぐすかのように、さまざまな音を正確に聞き分ける耳を持つ。

作元の超人ぶりを示す、面白いエピソードがある。彼は自宅のリビングで、ふと、ある小さな音に不快感を抱いていた。その発生源は、新調した冷蔵庫のモーター音だった。たまらず作元はメーカーに連絡。修理担当者が駆けつけたが、問題は解決されなかった。ごく一部の人しか気にならない音域の音だったため、修理の対象にならなかったのである。職業病と言ってしまえばそれまでだが、彼が自ら対策を施したのはいうまでもない。

新車を購入した時の高揚感、その喜びをできるだけ長くお客様に持ち続けていただくためには、ありとあらゆる品質をレベルアップさせねばならない。クルマはさまざまなシチュエーションで、いろんな音を発しているため、今回フィーチャーした風音という限定された範囲の音にさえ、専属のスペシャリストを張り付かせる必要がある。

神の耳を持つ男、作元隆伸。作元は神の耳など大袈裟だと笑う。自分の仕事、日産車の開発に必要なのは神の耳ではなく、貪欲にクルマを愛し続ける気持ちだという。“クルマが好き”じゃないと、この仕事は務まらないとも語る作元。なるほど、日産車は「人」が作っている。

大型実車風洞の最大風速は270km/hで、世界トップレベルの肩書きを持つ。