2024.7.4

運転に取り戻したい「恐怖」と「楽しさ」。安全な道がない極地のリアリティから考える、人間の主体性とは

普段、私たちが当たり前に利用している道路などの交通インフラ。モビリティはそんな「当たり前」を前提に開発されています。ですが、もし何の前提もない世界から未来を展望できれば、これまで見えて来なかったモビリティの可能性が見えてくるかもしれません。例えば、北極や南極などの極地や宇宙空間といった場所で営まれる生活は、未来の移動に対してどのような示唆を与えてくれるのでしょうか。

今回、お話をうかがったのは、極地建築家の村上祐資さん。南極や火星を模した空間での調査・実験に参加し、そこでの経験を人々の暮らしに生かすことを実践してきた村上さんからの“問いかけ”とは?

村上祐資さん

村上 祐資
1978年生まれ。極地建築家。宇宙や南極、ヒマラヤなど、厳しい環境のなかにある美しい暮らし方を探すために、さまざまな極地の生活を踏査。2008年に第50次南極地域観測隊に参加。2017年の模擬火星居住実験『The Mars 160 Mission』では副隊長を務める。2018年にはNPO法人〈FIELD assistant〉を設立し、模擬宇宙船生活実験《SHIRASE EXP.》などを実施。極地での生活を通じて、人の暮らしについて研究している。

安全を最優先に考える極地の移動方法とは?

――村上さんはこれまで、南極や模擬火星など、さまざまな極地での暮らしを実践されてきました。当然、その暮らしには「移動」もセットだったと思うのですが、極地における「移動」とはどのようなものなのでしょうか。

極地というと、「自由」とか「制約がない」といった言葉を思い浮かべるかもしれませんが、実態としてはその真逆です。自由にできることはほとんどありませんし、移動をするにしても、まずは道から自分たちの手でつくらなければなりません。

例えば南極であれば、目的地は決まっていたとしても移動するのは海を覆う氷上です。南極にも短いながら夏はあって、場所によっては氷が緩んでしまうので、一度つくった道を次のシーズンにも利用できるわけではなく、また一からつくり直さなければならない。極地から日本に帰ってくると、「いつもの道」がそこにあるのでとてもありがたく感じますね。

村上祐資さん

――極地においては、私たちの「当たり前」が通じないわけですね。

移動方法もまったく異なります。南極で雪上車に乗る時は、最低でも2台1セットでしゃくとり虫のように移動しなければなりません。まずは1台だけが移動して、もう1台は後ろからそれを見ている。先行車がある程度進み、そのルートの安全が確認できたら先行車は停止し、後続車を待ちます。そして、後続車は同じルートを通って先行車が止まっているところまで進む。それを繰り返すんです。

複数台がセットになって移動する目的は、安全性の担保です。2台以上の車が常にコミュニケーションを取りながら移動することで、少しでも安全な移動を実現しているわけですが、もしかするとそういった移動のあり方、つまり「複数台がユニットとして移動することで、安全性を確保する」という考え方は、日常の移動にも応用できるかもしれません。

運転の感覚に「怖さ」と「楽しさ」を取り戻したい

僕からも日産総合研究所の方に聞いてみたいことがあって。例えば、南極で利用する雪上車には「内陸用」とか「海氷用」などの種類があります。市販されている車にも、さまざまな環境に最適化された車があり、私たちドライバーもそれぞれの車に適応しています。ですが、ドライバーである人間は便利なものに適応しすぎると、抜け出せなくなってしまう気がするんです。このあたりの問題は、車づくりの現場ではどのように考えられているのでしょうか。

――わかりやすい例は、運転支援システムですよね。最近では、ボタンひとつで前の車を追従する機能が普及しています。たしかにそういった機能に依存し過ぎてしまうと、これまでにはなかった問題が生じるのではないかという議論はあります。

僕は過度な適応を抑止するためには「恐怖」が必要だと思っているんです。これからの車には、ドライバーが乗った瞬間に「気をつけて運転しなければ」と思うような要素が必要なのではないかと。

もちろん、ずっと怖さを感じる車には乗っていられないと思いますが、「この車は大丈夫だ」という感覚は乗っている途中で感じられればいい。少なくとも乗る瞬間だけは、自動車教習所で初めて車に乗った時のような感覚を持てるといいなと思います。

教習所では「乗車する前に、車の前後を必ず指差し確認をしましょう」と習うじゃないですか。日常生活の中でそれをやっている人は少ないと思いますが、極地では必ずやるんです。理由は怖いから。その動作をやらなければ、怖くて車を動かせないんですよね。何度乗っても怖さが薄れることはないので、毎回必ずやります。出発前のルーティンのようなもので、それが「今から危険な場所に行くんだ」という恐怖心を呼び起こし、気を引き締めてくれているような気がするんです。日常生活で車に乗る際にもそういったルーティンがあるといいなと思います。

――とはいえ、「安全のために指差し確認をしよう」と言っても、ほとんどの人がやらないのではないかと思うんです。

そうですね。僕の中でも答えが出ているわけではないのですが、「やらなければならないこと」になってしまうと、安全を確保するためのルーティンは生じ得ない気がするんです。矛盾して聞こえるかもしれませんが、運転に「楽しいから運転する」という主体性を取り戻せたら、同時に潜む怖さも思い出すような気がします。

僕はもともとスキーをやっていたのですが、スピードを出してカーブに突っ込んでいくとき、快感とともに恐怖も感じるんですよね。それらは風を切る感覚や、身体全体にかかる遠心力が生み出すものだと思っています。そのとき、無意識に「自ら主体的に楽しさを得ようとするならば、そこに付随する恐怖も受け入れなければならない」と感じているような気がするんですよね。

人が自動運転技術に適応しすぎてゲームのように車を運転するようになったとき、さまざまな事故が起こってしまう可能性があると思います。そうさせないためにも、身体的に楽しさや恐怖を感じてもらうための技術があればいいですね。

村上祐資さん

極地では無関心を避けながら安全な仕組みを考える

――人の主体的感覚を呼び起こすためにルーティンが大切だと考えられているのですね。もう少し、詳しく聞かせてもらえませんか?

南極の基地でご飯を食べるとき、西欧諸国の隊の多くはバイキング形式なんです。南極では各人がさまざまな研究をしながら生活しているので、バイキング形式であれば研究の手を止めず、多少冷めていたとしても好きなタイミングで食事を摂れて合理的だから。

一方、日本の基地では三食必ず、全員が一堂に会して同じものを食べることが伝統になっていて、僕はこの食事のあり方がとても重要な役割を担っていると感じています。というのも、長期間にわたって閉鎖空間で過ごしていると、次第に一緒に生活している仲間に対する感覚が鈍ってしまい、互いの体調不良に気付きにくくなってしまうんです。

では、日に何度も体調確認のためのミーティングを開くかといえば、それはそれで手間になってしまう。ですが、何があっても1日に3回は食事を摂るわけですよね。そこで互いの顔を見ていれば、感覚が鈍っていたとしても気づくことがある。いうなれば食事は点呼の時間なわけです。

――強制的に互いの様子に注意を向けるための時間になっている。

モビリティにも同じことがいえるかもしれません。長時間ドライブをしていると、だんだんと車やドライバーの様子に注意が向けられなくなってくる。そんな時にガソリンスタンドなどが、地味だけど重要な役割を果たしてきたのではないでしょうか。店員さんが異変に気付き「お客さん、そろそろ休んだほうがいいんじゃないですか?」と声を掛けることもあったはず。

あるいは、最近ではほとんどの車がETCを利用していますが、かつて有人料金所でもそういったコミュニケーションはあったかもしれません。技術の発展によってさまざまなことが効率化され、それに伴ってかつて当たり前のように行っていた行動を取らなくなった人は少なくないでしょう。

しかし、もしかするとそれらの行動は何かに貢献していたのかもしれません。その行動の裏にあった価値を顧みないままに「古い習慣」として置いていこうとしているのが現状なのではないでしょうか。ガソリンスタンドや有人料金所は「第三者が車やドライバーに注意を向ける」という役割を担っていたのかもしれません。

安全に移動し続けるためには、誰かがドライバーに注意を向け続ける必要がある。電気自動車に乗っている方々は、運転しながらバッテリーの残量をたしかめ、必要があれば家に帰って充電していると思うのですが、それはとても重要なルーティンだと感じます。「充電の必要性を考える時間」は少なからず車や運転する自分自身に意識を向けているわけですよね。だから、電気自動車のバッテリーは長持ちしすぎないほうがいいのかもしれません(笑)。

――人が安全性に意識を向けることが減ってしまいそうですよね。

自動化するのみではなく、運転する人と一緒に安全を実現するというスタンスが必要なのではないでしょうか。どれだけ安全に関する技術が発達しても、車に乗る人が安全に対して無関心になってしまったら意味がないと思うんです。「運転とは怖いことだ」という感覚を麻痺させない、たとえ一時的に麻痺してもリセットできる仕組みとセットで技術が成長していく必要があるのではないか、と。安全を突き詰めると、車体やそれを動かすシステムではなく、「乗る人」にウエイトを置いた車づくりが求められていくのではないでしょうか。

村上祐資さん

目の前のユーザーと一緒に暮らすからこそ建築家として社会実装に取り組める

――ここまでのお話を聞いて、村上さんは徹底して「現実の暮らしや社会をいかによくできるか」という視点で考えられていると感じます。これまでもさまざまな知見を人々の実生活に生かすこと、すなわち社会実装を志向されてきたのでしょうか。

「社会実装」を意識したことはないんです。ただ、自分が知っている知識や経験を社会に還元していかなければ、僕の活動は建築ではなく、冒険や探検になってしまうという恐怖があります。

というのも、僕は大学時代に建築学科の卒業制作を進めているなかで、そもそもの部分から課題を突き詰め過ぎて、自分の描く1本の線によって、その建築物の中で生きる人々の生活が変わってしまうという事実を突きつけられて怖くなってしまった。1本の線を引くことすらできなくなってしまい、その逃れられない恐怖を克服するために、荒療治かもしれませんが極地に飛び込むことを決めたんです。

極地での暮らしは地味で苦しくて、目を逸らしたくなるようなことばかり起こります。そんななかで仲間たちが生活する空間を設計するわけですが、そこでは僕の極地建築家としてのアクションのすべてに対して即座にリアクションが返ってくる。言うなればクライアント、あるいはユーザーと一緒に生活しているわけですからね。

大学生の時に抱いた恐怖は拭い去れないかもしれないけど、それでも目の前の人のために線を引かなければなりません。そこにある仲間たちの暮らしからは目を逸らせないし、もし目を逸らしてしまったら建築をやめなければならないという感覚がある。そうやって踏みとどまり続けているうちに、極地で得た経験を社会実装できるようになっているのかもしれません。

村上祐資さん

――目の前にいる人々の暮らしから目を逸らさないことが、社会実装につながっている。

あとは、昨今の宇宙ブームの影響も大きいかもしれません。これまで以上にさまざまな方から「宇宙での暮らしってどのようなものなのですか?」と聞かれるようになりました。僕は宇宙を模した空間で生活をしたことがあるだけで宇宙に行ったことはありませんが、それでもゼロから宇宙に挑もうとする方々よりは知識や経験がある。

「極地に行って、さまざまな経験ができたな」くらいで終われれば幸せだったのかもしれませんが、今、僕の目の前には宇宙の華やかな部分しか見ていない「ちょっと危なっかしいぞ」を感じる人たちがいます。挑戦だから、その人たちの自己責任だから、といって目を逸らしてしまえない自分に気付いてしまったわけです。自分が得た経験や知識を社会に還元しようとする気持ちは、「もう目を逸らせなくなってしまった」という事実から生まれているのかもしれませんね。

〈村上祐資さんからの問いかけ〉
「自動運転が当たり前になった世界において、私たちがモビリティに対して主体的に関わり共生するためには?」